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吉田猫次郎のブログ(2005年~2020年分)

事業再生コンサルタント・吉田猫次郎の旧ブログです。恥ずかしいけど残しておきます。2021年からは別の場所に移転しました。

 

猫次郎10周年~誕生秘話


Category: 借金苦による自殺問題   Tags: ---
 2001年1月10日に猫次郎と名乗ってホームページを開設してから、今日で10年になります。

 猫次郎、満10歳。

 非常に感慨深いものがあります。
 いつもより文章が上手く書けません。
 泣きそうになりながら、これを書いています。



【その1.本に書いてない裏話~息子のこと】


 この話題には滅多に触れることがありませんが、今回は特別に書きます。

 私には息子が1人います。2000年9月17日に生まれました。

 3歳までは仲睦まじく一緒に暮らしていましたが、2003年11月に別居してからなかなか会えなくなり、2006年4月に正式離婚。その後も時々会っていましたが、元妻が再婚して新しい家庭ができてからは全く会っていません。最後に息子と会ったのは2007年8月30日でした。つらいことなので、日時や当時着ていた服まではっきり憶えています。今でも毎日毎晩のように息子のことを思い出します。夜は酒が欠かせません。(会うなとは言われていませんが、複雑な思いがあり、なかなか会いたいと申し出ることができずに現在に至っています。)

 私は1999年~2000年の間に、借金苦や倒産危機でおおよそ考えられる最悪の出来事を、ほぼ全て味わいました。生き残るために本当に必死でした。子供ができたのはまさにその最中のことでした。種族保存の本能でしょうか、それとも神の啓示か何かでしょうか、あのときの心境は、うまく言葉で説明することができません。

 最近になってようやくカミングアウトできるようになりましたが、私は2000年1月6日に、保険金目当てで自動車事故にみせかけて自殺しようとしたことがあります。ド素人だった私は、借金返済のためにはこの方法しかないと思っていたのです。さいわい自殺は未遂、いや、未遂にすらならず、カスリ傷ひとつ負わずに帰宅することができましたが、翌日以降はまた厳しい現実に引き戻されました。ヤミ金の返済、月末の商工ローン返済、支払いの山など。妊娠が判明したのは、その直後のことでした。

 普通なら、そんなひどく逼迫した時期に子供を作るなんて言語道断、堕ろせと言われそうです。とても喜べそうにありません。実際、私も元妻から妊娠の事実を告げられたときは、複雑な表情を浮かべ、とても喜んでいるようには見えなかったそうです。でも私は嬉しかった。ただ、「喜び100% + 厳しい現実ウン% = 容量オーバー」といった感じで、とても手放しで喜べるような状態ではありませんでしたから、それが表情に出ていたのでしょう。

 とにかく嬉しかった。大袈裟かもしれませんが、死にそうな自分を、新しい命がつなぎ止めてくれたような感じでした。

 なにしろ年商の3倍以上もの借金、そのほぼ全てが高金利、ヤミ金まで手を出しているのです。誰がどう見ても自己破産するしかない状態なのです。しかも無知だった私は、自己破産イコール悲惨・一家離散・社会復帰不可能だと思い込んでいましたから、こりゃやっぱり自殺して保険金で返すしかないのではないかと、何度も何度も同じ思考をグルグルしていたような時期でした。人知れず。

 お腹の中の子供は、そんな私を生き返らせてくれたのです。
 
 「カッコ悪く悲惨な思いをするくらいだったら、保険金で借金を返して死のう」

という気持ちが日増しに強くなっていた自分が、子供ができたことを境に、

 「いや、カッコ悪くても生き残ろう!生まれくる子供のために!」

と大きく変化していったのです。
 
 そういう意味で、息子は私の命の恩人です。大恩人です。

 その後、私は強くなりました。2000年2月から夏にかけて自力で債務整理し(自己破産はしなかった。弁護士に依頼する金もなかったので特定調停や本人訴訟などを駆使しつつ自力再建を目指した)、夏までにはあれほど手強かった高金利の借入先をほぼ全てゼロ金利か低金利に引き直し和解し、元金も半分以下に減り、本業(家業の貿易会社)も少しずつ活気づきはじめて、ようやく再建の目処がたってきました。
少しずつ、厳しい現実と共存しながら、傷を負いながら、かっこ悪く・・・。

 そして9月17日の台風の日の夜、都内の病院で、難産の末、息子が誕生したのです。無事に。

 これがどれだけ嬉しかったことか。

 (私が当ブログで、毎年9月17日になると意味深なことを書いているのは、実は、会えない息子のことを想いながらのことなのです・・・)

 生後3ヶ月経った、2000年のクリスマスから年末にかけてのこと。
いつになく静かな休日を過ごすことができたある日、ようやく首がすわり始めた息子の寝顔を見ながら、ふと思いました。

 「思えばこの1年、すごい経験をしたなあ~。まだ問題は山積みだけど、俺が今こうして生きているのも、この子の(そして妻の)おかげだ。これを何かに書き残したいものだ・・・」と。

 これが猫次郎のはじまりです。私が32歳のときのことです。



【その2.猫次郎誕生秘話 ~ 本より引用】


借金なんかで死ぬな!借金なんかで死ぬな!
(2009/06/19)
吉田 猫次郎 朝日新聞出版

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 この本の36~37ページから、一部引用します。(修正前の原稿からコピペ)

 ≪ 話は2000年に戻りますが、このようなことがきっかけで、私は、自分の弱さを再認識すると同時に、「借金」についてより深く考えるようになっていきました。「借金は悪なのか?排除すべきなのか?」「いや、排除したら事業が存続できないではないか?どんな会社だって借金はあるぞ」「債務整理をして一度信用を失ったら、やはり再起できないのか?」「そんなはずはない。あってはならない。何か良い知恵を振り絞って、逆境と戦いながら事業を発展させるのが俺の使命だ!」「生まれた子供のためにも、逆境と戦い抜けるたくましい男になりたい!」「世の中にはきっと同じような境遇の人がいるはずだ。彼らはどうやって苦境を乗り切っているんだろうか!?」……などと、一人で自問自答する日々が続きました。そんなことを考えているうちに、2000年が暮れていきました。

 実にいろいろなことがあった1年間でした。

 年が明けて、2001年の正月休みのこと。

 私はふと、自分のこれまでの借金地獄の体験を、体験記としてホームページに書き綴ってみたい衝動に駆られました。理由はふたつです。ひとつは、自分と同じような境遇の人がいたら、何かの参考にしてもらいたいという、いわば「何かを与えたい」という気持ち。もうひとつは、同じような経験をしたことのある人がどのくらいいて、どのようにして厳しい現実を生き抜いてきたのか、情報を交換したいという、いわば「何かを得たい」という気持ち。このふたつの動機に駆られ、私は正月休みから毎晩、1週間ほどかけて、自分の体験記といくつかのコラムを書き綴った「借金地獄・倒産危機から、自力で脱出する方法」というホームページを開設しました。さすがに本名を名乗るのは恥ずかしいので、適当に「猫次郎」などと名乗りました。

 これが吉田猫次郎の始まりです。 ≫



【その3. あれから10年】


 ホームページを開設した当初は、この活動を仕事にしようという気持ちはありませんでした。
本業が別にあったので、そちらに専念しながら、片手間に、ひっそりと運営できればそれで十分と思っていました。
 ホームページを作成すること自体が初体験で(正月休みにパソコンショップで7980円のソフトを買って説明書を読みながら作成した)デザインも何も素人そのもので、そりゃもうひどい出来栄えでした。文章の量を除いては。
 
 ところが、いざ開設してみると、アクセス数が急速に伸び、感想メールや相談めいたメールも毎日数十通来るようになり、その反響の大きさに驚きました。(当時はそういうwebサイトが少なかったのです)

 手間を省くために「まぐまぐ」に登録し、メールマガジンで毎週体験記を更新し、そのメルマガ記事をホームページにコピペするという手順でホームページの分量を増やしていったのですが、それも今にして思えばアクセス数アップの原因だったかもしれません。(今でいうSEO対策のようなことを無意識のうちにやっていたんですね・・・)

 そして、月日が経つにつれ、ホームページを通じて、半ば自然発生的に、情報交換できる仲間が増えていきました。彼らのおかげで、実体験ベースしかないド素人だった私の知識やノウハウは少しずつ肉付けされていき、当初のひそかな目的だった「何かを得たい気持ち」と「何かを与えたい気持ち」は、あっという間に達成されていきました。

 2001年夏には某大手出版社から「このホームページは面白い。ぜひ本にしませんか?」という打診のメールが来ました。内心嬉しくて飛び上がりそうでしたが、このときは丁重にお断りしました。恥ずかしいのでひっそりやっていきたかったし(妻には内緒でした)、本を出すほど立派なものを書ける自信もなかったし、本業の土台がまだまだ不安定だったのでそちらに力を入れるのが先決だと思い・・・。

 同年秋、最初の離婚危機が訪れました。子育てに大変で経済的にも苦労をかけている妻にこれ以上余計な心配をかけまいと思ってやったことがいろいろ裏目に出て、夫婦間の信頼関係が一気に崩れていったのです。それ以来、私も妻に話しかけることに異常に神経を使うようになり、会話がますますぎくしゃくしていき、会話が減り、修復が難しくなっていきました。私は妻を愛していましたが、意識すればするほど固まってしまい身動きがとれませんでした。(私も病んでいたのかもしれません)2002-3年頃には夫婦間の会話は皆無に近くなっていきました。

 2003年春、本業の片手間のはずだった猫次郎のホームページが(図らずも、自然発生的に)ますます賑やかになり、内容も増え、出版社からも2-3社打診が続き、徐々に自信がでてきた私は、同年4月、満を持して、初めての本を出版しました(『借金にケリをつける法』サンマーク出版)。この本は好評で、翌々年には文庫化するに至りました。

 しかし、この頃にはもはや夫婦関係は修復困難になっていました。本を出版しても喜んでもらえず(私のほうも自信をもって報告することができず)、夏が過ぎ、秋がきて、別居の話を切り出され、2003年11月8日、妻は3歳の息子を連れて新居に引っ越していきました。

 息子はその前日まで、私の仕事場にしょっちゅう連れてきたり、父の私とベッタリ過ごしていました。

 このときの喪失感は、とても言葉で言い表すことができません。

 本を出す少し前から、「別れ」の予感はありました。何とか妻と修復したかったけど、意識がフリーズしてしまってどうすることもできませんでした。

 その頃から、私は「猫次郎」としての活動を、息子の成長と重ね合わせていくようになりました。
「猫次郎」が満5年になったら息子は5歳。「猫次郎」が満10年になったら息子は10歳です。息子のつもりで「猫次郎」を育てよう。成長記録を残そう。そして遠い将来、息子が大きくなったときに、自分の実のお父さんがこんな活動をしていることを少しでも誇りに思ってくれたら、こんな嬉しいことはない、と。

 猫次郎は私であり、息子でもあり、別の新しい何かでもある・・・。


 私はよく、猫次郎としての現在の活動を、「求めがあるからやっている。求めがある限りは続ける。でも、求めがなくなったらすぐ辞める」と言っています。この言葉に嘘偽りはありません。求めがないのにそこにあぐらをかいてしがみつきたくはありません。

 でも、もっと本心を言えば、「今ではすっかり仕事となってしまったこの活動。息子の分身のようでもある。大きく育ったものだ。願わくば、これからも時代の変化に応じて自分自身も変化・成長していきながら、求められ続ける存在でありたい。そして長く継続していきたい・・・」と思っています。(商業的にはずっと貧乏なままですが、おかげさまで知名度やノウハウ、人脈、再生実績等といった「お金に代えられない財産」は随分と積み上げることができたなあ、と我ながら感じています。)

 そんな意味で、「猫次郎」を10年続けることができたというのは、ひときわ感慨深いものがあります。



【その4. 猫次郎という名前の由来】


 これも初公開の話です。

 私は本やホームページで、「何も考えず、適当に猫次郎と名づけました。深い意味はありません。3秒でネーミングしました・・・」などと述べていますが、これは半分ホント、半分ウソです。

 前述のとおり、私は2001年1月10日に万感の思いで猫次郎のホームページを開設しました。
仕事にする気はなかったけれども、何かを得たい、何かを与えたい、これ以上ないほどの逆境をはねのけたい、と。

 そのとき、ふと思い出したのが、漫画「キャプテン翼」に出てくるエースストライカー、日向小次郎でした。
日向小次郎は主人公(大空翼)の少年時代からのライバルで、小学生の時に父親を亡くし、小学校高学年の頃から新聞配達をして家計を助け、そうしながらサッカーで日本一、いや世界一のエースストライカーを目指すキャラクターで、その性格から「猛虎」と呼ばれています。逆境を乗り越え、道なき道を切り開いてきたパイオニアのひとりという設定です。
 私はそれにちなんで(私も高校~大学のときに足掛け3年半ほど新聞配達をしていました)、「猛虎」、いや、でも俺は「虎」という感じではないから「猛猫」かな? だとしたら「小次郎」じゃなくて「猫次郎」だな、アハハ・・・と、半ば冗談、半ば本気でネーミングしたのが始まりだったのです。

 いっぽう、吉田という姓は、これより少し後につけたものです。猫次郎という名前だけではちょっと淋しくなってきたので、何か苗字をつけよう、でも本名(吉川博文)からは恥ずかしいから取りたくない、吉という字だけ残して、違う苗字にしよう、と・・・。




 以上、短く書くつもりでしたが、やはり長文になってしまいました。

 ごくごく個人的な話です。いろいろウェットな要素も含んでいますから、盛大に祝うような気にはなれません。

 でも、軽く一人で祝いたい気分です。
 
 今日2011年1月10日は、私にとって、とても神聖な日です。



 吉田猫次郎



(追記) これまたちょっと恥ずかしい告知ですが・・、今週1月12日(水)の夜にテレビ出演します。
 フジテレビ系、さんまさん司会の 「ホンマでっか!?TV」 というバラエティ番組。
 テレビ出演は過去にも「報道ステーション」や「ガイアの夜明け」など10回以上ありましたが、バラエティ番組にスタジオ出演するのは、これが初めてです。恥ずかしい役回りなので私はたぶん見ませんが、お暇な方はよろしかったらご笑覧下さいませ。

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プロフィール

吉田猫次郎

Author:吉田猫次郎
【NEKO-KEN】
中小・零細企業・自営業向け事業再生コンサルタント。
事務所所在地は、東京都三鷹市下連雀3-31-4-206 (2021年4月現在)
経済産業省認定・経営革新等認定支援機関(認定支援機関)。
2003年開業。末期症状の会社の倒産回避(生き残りのための応急処置)から、原因究明、デューデリジェンス、再生スキーム策定、金融機関向け経営改善計画策定支援、資金繰り改善、PL改善(黒字化)、実行支援、事業承継、補助金、最後の出口へのお手伝いに至るまで、事業再生コンサルタントとしては一通りの経験と実績があります。
企業理念は「ヒト・モノ・カネの再生」。


【吉田猫次郎】
本名よしかわひろふみ。(株)NEKO-KEN代表取締役、CTP認定事業再生士、認定支援機関、著述業、ほか。
1968年東京生、乙女座、A型、申年、五黄土星。
著書13冊。講演300回以上。テレビ出演15回くらい。
20代のサラリーマン時代に高額の連帯保証人になり、その後、1998-2000年の脱サラ時に、借金苦・倒産危機で考えられる最悪の事態をほぼ全て体験したことがある(高利、多重、ヤミ金、怖い取立て、手形不渡り、ブラックリスト、強制執行など・・・だが自己破産はせず)。その体験記を、2001年に猫次郎と名乗ってホームページに公開したところ、予想外にヒットしてしまい、2003年に書籍化。以後、事業再生コンサルタントに転身し現在に至る。
最近はスポーツらしいこともするようになり、2012年(44歳)から現在までにトライアスロンに12回出場、全て完走。フルマラソンも2回出場、2回完走。
嫌いな食べ物は、ダイコンと漬物。特に「たくあん」が大の苦手で、あれを食うのは、どの拷問よりも苦痛だと思う。
2020年8月に脳梗塞発症。3週間ほど入院。しかし現在こうして文章を書いているし、手足も自由に動く。

★ 「相談」をご希望の方は、ホームページのほうに申込方法等を記載していますのでご覧下さい。有料と無料があります。お急ぎの方はお電話でもOKです。 → 吉田猫次郎ホームページ

★ 取材、講演、執筆依頼は、直接メールまたはお電話下さい。 ooneko@nekojiro.net TEL(0422)46-9480

 
 
 
 
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