吉田猫次郎とNEKO-KEN相談員のブログ

中小企業再生や敗者復活に関する投稿が主ですが、ホームページとブログを区別し、ここでは幾分ユルめの内容になっています。

 

受験に落ちて、浪人が決まった人へ (少しでも参考になれば・・・)


Category: ビンボーでも学校へ行こう   Tags: ---
 久々の「ビンボーでも学校へ行こう」シリーズです。

 実は昨日、元顧問先(借金4億円→1億円以下に減ったのも束の間、売上の急激な落ち込みのため新たな苦しい局面を迎えている自動車関連業者)の社長さんから、
 
「高校3年の息子が、大学受験に全部落ちてしまってひどく落胆している。特に、浪人して家計に負担をかけることに強い罪悪感があるようなのだ。実際、ウチは今、商売の売上が激減してしまって、生活するので精一杯の状態だ。わずか11万円の住宅ローンの返済も遅れているありさまだ。でも親心としては、息子にはやっぱり上を目指して欲しい。・・・そこで敗者復活に強い猫次郎さんに、息子の進路相談をお願いしたいのだが・・・」 

との依頼があり、こりゃ放っておけんなと思い、やりかけの仕事を放り出して某県某所のご自宅を訪ねてきました。


 実は私も、この息子さんと同じような経験があります。

 いや、もっとひどい状態だったかもしれません。

 私は勉強方法いついては自信をもって助言できるほどのものを持ち合わせていませんが、逆境下における敗者復活に限っていえば、ちょっとはお役に立てるかもしれないと思い、まず自分の体験談から話すことにしました。


 ・・・・・


◎ まず高校受験から。

 私は1968年8月の生まれで、練馬区立の開進第三という小中学校を出ました。うちの親は教育熱心でも放任主義でもどちらでもなく、ただ日々の仕事と生活に必死という感じでしたので、子供の頃はとにかく毎日遊びまくっていました。公園で遊んだり、昆虫や魚を捕ったり、テレビや漫画に夢中だったり。ゲーセンにも散々通い詰めました。

 小学校のときの成績は普通でしたが、中学のときの成績はかなりムラがありました。特に中1の後半から中2の後半までの1年間は精神的にかなり揺らいでおり(ちょっとグレかかっていた)、成績は中の下。サッカー部も途中で辞めてしまいました。

 しかし、中2の終わり頃から急激に成績が上がり、中3のときはオール4に5が少々混じるような良い成績に変貌しました。

 成績が急上昇したキッカケは、今だから話せますが、「好きな女の子が頭良かったから」。(注:好きな女の子は途中1-2回変わったが、みんなすごく頭良かったのです)

 少しでも共通の話題が欲しい。少しでも好かれたい。できれば同じ高校に行きたい。・・・そんな思いで、必死になって勉強するようになったのです。授業も(カッコイイところを見せたいので)マジメに聞くようになり、サッカー部も恥を忍んで出戻りました。塾にはそれまで行ったことがありませんでしたが、中3になってから、親に頼み込んで近所の無名の安い塾に行かせてもらうようになりました。

 こうして、高校受験は少し良いところを狙えるようになり、当時オール4、偏差値60くらいの人が入っていた都立石神井という高校に進学することになりました。

 ちなみに、小中学校時代の我が家の家庭環境は、両親の夫婦喧嘩が絶えず、経済状態も不安定極まりないものでした。良いときはヴァイオリンや英会話などを習わせてくれたり家族旅行によく行ったりしていましたが、悪いときは電気や電話を止められたり、給食費が遅れたりすることもよくありました。両親の仕事は小学校の頃からいろいろ手伝っていました。


◎ 次に高校時代。

 高校に入って一番嬉しかったことは、とにかく「自由を手に入れることができた」ことです。校則が無いに等しい高校でしたので、16歳になってすぐにアルバイトを始めました。以後、高校在学中は常にアルバイトしていました(新聞配達、クリーニング屋、スーパー丸正のレジ、日雇いの引越し屋、屋台のたこやき屋など・・・)これで「お金の自由」が得られるようになりました。

 また、オートバイに目覚め、「行動範囲の自由」も得られるようになりました。高校1年のときに原付バイクを買い、2年のときに小型免許を試験場で取って125ccを買い、3年のときには中型も取りました。これで毎週ツーリングに行ったり野宿したり荒川でモトクロスをやったりして遊んでいました。

 部活は硬式テニス部に入りましたが、1年の夏に体を壊して辞めました。以後、部活はやらず、文化祭や体育祭には夢中になって打ち込みましたが、あとはアルバイトとバイクに明け暮れていました。

 授業には毎日出ていましたが、教科書を縦に置いて、マンガや雑誌や小説を読んだり寝てばかりいました。
 当然、成績は激しく落ち込み、1年生のときから中の下で、2年と3年のときは学年最下位レベルで、毎年、留年するかしないかの瀬戸際に立たされているような状態でした。(但し美術だけは「5」しか取ったことがない)

 ある日、担任の先生に「とりあえず大学受験してみようかと思います」と言ってみたら、プッと笑われて、「おまえなあー、その前に卒業できるかどうかを心配しろー!」と云われたことがあります。
(プッと笑われたのが結構くやしくて、このときのことは今でもよく覚えています。ちなみにその先公、じゃなかった先生は、現在、多摩某所の都立高校の校長をしているそうです)

 卒業後に何をしたいか、これといって決めていなかったので、とりあえずカッコつけるために、明治大学を受験しました。当然、落ちました。(年末年始に学校で受けた模試の偏差値は確か38か39かそこらだった・・・)

 高校3年の卒業式のことはよく憶えていません。遊びや課外活動のほうで完全燃焼して一片の悔いもありませんでしたが、勉強を「全く」しなかったことだけが少し悔やまれました。


◎ 新聞配達しながら「宅浪」

 実は、高校のときからずっと好きな女性がいました。 よく文通したり遊びに行ったりしている間柄でした。 たぶん彼女は私のことを「すごく良い友達」としか思っていなかったのでしょうが(泣)、私のほうは、ひそかにかなり彼女に夢中でした。彼女は現役で大学に進学しました。頭も良く、聡明な人でした。(結局、最後まで自分の気持ちを打ち明けられなかった。嗚呼・・・)

 高校卒業後、4月から大泉学園の朝日新聞で新聞配達のバイトを始めました。いや、バイトというよりは社員に近い形で、朝刊も夕刊も集金もやっていました。しかし、どこかくすぶっていました。

 まわりの親しい友人達は大手予備校に通い(うちの高校は大学進学率は高いが浪人率も極めて高い)、好きな女性は一足先に大学に進学。また、別の友人たちは明確な意志のもと、職人になったり専門学校に進んだりしていました。自分だけが無目標で、取り残された感じがしたものです・・・。

 私が本気で「よし、大学に行こう!」と決心したのは、この年(87年)の5月頃だったと記憶しています。そのキッカケは、やはり「好きな人の影響」でした。彼女はいつも、私をより高いところに引っ張り上げてくれました。良い本や良い音楽をすすめてくれたり、正しい考え方や感じ方を示唆してくれたり・・・。(愛の力ってすごい)

 それともうひとつ。 高校時代にアルバイトを10種類位したり、新聞配達の社員まがいのことをしたりするうちに、なんとなく、世の中の仕組みが見えてきたからです。私は将来これといってなりたい職業がない。特技もない。学問がしたいわけでもない。将来自分が何になるのかわからない。わからないままでも別にいいんだけど・・・、だけど、職業選択の自由だけは欲しい。選択できない生き方は嫌だ。選択肢は広ければ広いほどいい。将来、弁護士になりたくなるかもしれないし、商社マンになりたくなるかもしれない。それら広い選択肢を得るためには、やっぱり大学に入る必要があるな、と。

 そんなこんなで、5月頃に一気にスイッチが入りました。

 勉強方法については、予備校に入るお金はたぶんないし(あらためて親に聞くまでもなくそんなことはわかっていた)、仮に予備校に入ったとしても急激に追いついて追い上げる自信がなかったので、自分で緩急ペース配分できる勉強法、つまり、自宅浪人(宅浪)を選ぶことにしました。ただ、100%独学では心細かったので、Z会の通信添削を2科目だけ受けることにしました。

 新聞配達(朝3時半起きx毎日)は続けました。但し朝刊だけです。理由は3つ。お金の心配をしたくないため。軟弱になった自分にカツを入れるため。毎日同じことを繰り返すペース感を持続するため。

 残された時間が限られているので、受験科目は3科目に絞ることにしました。もう国立は狙えません。私立文系です。

 偏差値38からの遅いスタート。アルバイトしながらの自宅浪人。なかなかの逆境です。

 私は自分を漫画の主人公か何かに見立てて、「フッ、俺は逆境になればなるほど真価を発揮できる男なのさ」などと自己暗示をかけて取り組むことにしました。

 佐野元春の「Someday」という曲の歌詞に、
「手遅れと言われても 口笛で答えていたあの頃 誰にも従わず~」
という一節がありますが(中学時代よく聴いた)、まさにそんな心境でした。

 5月から、毎日勉強を続けました。朝は3時半起きで新聞配達。勉強は図書館の自習室が使える9時-6時まで。昼食とわずかな昼寝を除けばずっと勉強。夜は9時までに就寝。

 Z会の難しい問題を、制限時間を一切無視して、辞書を引きまくりながら完全回答を目指して書き上げることを繰り返しました。あとはそれと並行して、参考書と問題集が一体になったような基礎的なものを各科目1冊ずつ、1冊につき1-2ヶ月かけるようなペースでやっていきました。(問題集1冊やりとげるとすごい達成感を感じられるので、そういったささやかな達成感を心のよりどころにしてモチベーションを上げていきました)

 勉強が散漫にならないよう、夏までは英語に1日の半分以上を割き、英語に自信をつけることにし、国語と日本史は少ししかやりませんでした。

 8月頃から毎月2回ほど、模試を受けはじめました。最初はなかなか結果が出なくて焦りましたが、9月頃から一気に英語の成績が上がり、偏差値60近くになりました。これには我ながら驚きました。

 10月頃には英語が60を超え、また国語も60を超えるようになりました。国語は現代文の読解だけは元々得意なほうで(小学生の頃からかなり本好きで、高校生のときには新潮文庫の100冊を全部読んだ)、あとは漢字と古文と漢文だけ克服すればよかったので・・・。 但し日本史だけは偏差値45以下のひどい成績でした。

 秋頃からは興味本位で、Z会の小論文も受講しはじめました。これは思いがけず大変良い訓練になりました。もともと文章を書くのは好きなほうで(これも好きな女の子との文通で鍛えられた。本当に愛の力はスゴイですね・・・) なんと、受講3ヵ月後には模範解答に選ばれるほどになりました。ある模試では偏差値70を超えました。 この時点で、英語と小論文だけで受けられる上位の大学(慶応や青山学院など)が何とか現実的に狙えるくらいになりました。(しかし日本史にこだわった)

 冬が近づいてからは日本史と古文を集中的に勉強し、英語は長文を多読することに努め、年が明けてからは赤本で過去問を片っ端からやるようになりました。

 年末年始頃には国英2科目の模試の偏差値が65以上をキープできるようになり、かなり自信がついて、本命を早慶上智クラスに、滑り止めをMARCHクラスに位置づけることにし、それ以外は受けないことに方針を固めました。(なんという無謀・・・)
 
 年が明けて、正月休み、大学見学をして回りました。外側から眺めるのみでしたが、明治、青学、法政、早稲田、上智などいくつか回った中で、中央大学の八王子校舎に一目惚れしてしまいました。中大はバイク通学OKで、広いバイク置き場があります。自然にも恵まれています。こりゃバイク好きにとっては天国のような環境だな、と。

 ついでにいえば、中大は学費が安い! 当時、早慶上智MARCHの中では中央と明治が一番安かったと記憶しています。

 そして2月。いくつか受けた中で、どうにか補欠も入れて3つほど合格することができ、その中から迷わず、中央大学を選びました。

 大学に入るといろいろな人間に出会えますが、中大もマンモス大学なので、なかなかいろいろな人がいました。私のように新聞配達しながら自宅浪人で偏差値38から這い上がってきたような、しかもその原動力が「愛の力だった」などという変な奴は周りにいませんでしたが、ある意味、それ以上に過酷な環境下にいる人と何人か知り合いました。世間は広い、俺なんかまだまだ大したことないな、と思いました。

 また、大学時代にバイト先で知り合った友人に、もっとすごい男がいました。彼は高校生のときに父親が借金を残して失踪し、母親は他の男と同棲、かなりすさんだ家庭環境で過ごしており、彼自身もなかなかの不良少年だったのですが、高校を卒業して一人暮らしをしてから、私と同じような動機(人生の選択肢を広げたい&好きな子が頭いいから)で猛勉強し、バイトしながら2浪して、東大の理系に進学していました。


◎ 長くなりましたが、

 「神は乗り越えられない試練を与えない」といいます。

 ハワイには "No rain, no rainbow"(雨が降らなければ虹は見られない)という諺があります。

 アメリカには "Where there's a will, there's a way"(意志あるところに道は開ける)という諺があります。

 普通に育った人がわきめもふらずに一直線で頑張るのも十分立派ですが、逆境下で、挫折を味わいながら、七転び八起きの精神で這い上がるのはもっと立派だと思います。

 「人生はドラマだ」といいますが、そうだとしたら、主人公はあなたです。
 せっかくですから、いいドラマを作り上げて下さい。ドラマはサプライズがあるから面白いのです。そう考えれば、不幸もピンチも楽しめるではありませんか。



・・・とまあ、そんな話を昨日してきました。

 20年以上前の昔話に過ぎませんから、どれだけ彼に役立ってもらえたか、わかりません。
内容的にも、成功体験というよりは、どん底から這い上がったという程度のものですし・・・。

 でも、最近この手の話(いろいろな形で受験に挫折してしまった人の話)をよく聞くので、わずかでも励みになればと思い、ブログにUPさせて頂いた次第です。


 猫

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プロフィール

吉田猫次郎とNEKO-KEN相談員

Author:吉田猫次郎とNEKO-KEN相談員
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【NEKO-KEN】
中小・零細企業・自営業向け事業再生コンサルタント。東京都中野区。
経営革新等認定支援機関(認定支援機関)。
末期症状の会社の倒産回避(生き残りのための応急処置)から、原因究明、デューデリジェンス、再生スキーム策定、金融機関向け経営改善計画策定支援、資金繰り改善、PL改善(黒字化)、実行支援、最後の出口へのお手伝いに至るまで、事業再生コンサルタントとしては一通りの経験と実績があります。
ミッションは「ヒト・モノ・カネの再生」。


【吉田猫次郎】
(株)NEKO-KEN代表取締役。
本名よしかわひろふみ。1968年東京生、乙女座、A型、申年、五黄土星。
著書12冊。講演300回以上。テレビ出演15回くらい。
20代のサラリーマン時代に高額の連帯保証人になり、その後、1998-2000年の脱サラ時に、借金苦・倒産危機で考えられる最悪の事態をほぼ全て体験したことがある(高利、多重、ヤミ金、怖い取立て、手形不渡り、ブラックリスト、強制執行など・・・だが自己破産はせず)。その体験記を、2001年に猫次郎と名乗ってホームページに公開したところ、思いがけずヒットしてしまい、2003年に書籍化。以後、事業再生コンサルタントに転身し現在に至る。
最近はスポーツらしいこともするようになり、2012年(44歳)から現在までにトライアスロンに8回出場、全て完走。フルマラソンも2回出場、2回完走。
嫌いな食べ物は、ダイコンと漬物。特に「たくあん」が大の苦手で、あれを食うのは、どの拷問よりも苦痛だと思う。

【相談員】
須田幸雄: CTP認定事業再生士。資金繰り改善、財務体質改善、労務、管理等に強い。

廣田守伸: CTP認定事業再生士。関西地区担当。事業再生コンサルタント歴16年以上の大ベテラン。

金久保 健: 中小企業診断士歴20数年。マーケティング、事業性評価、PL改善に強いが、事業再生コンサルタントとしても10年近い実績がある。

 
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★ 取材、講演、執筆依頼は、直接メールまたは電話またはFAX下さい。 ooneko@nekojiro.net TEL(03)5342-9488 FAX (03)3229-8329

★ このブログは長い間、吉田猫次郎ひとりで書いておりましたが、2017年8月より、3名の相談員と共同作業で投稿していきます。お楽しみに。

 
 
 
 
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